コラム「復・建|日刊紙 日刊建設タイムズ

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2017/09/12

子規生誕150年、漱石との親交

▼明治という近代日本の黎明期に新しい文学の創造を目指した俳人・正岡子規。その生誕150年にあたる今年は各地で様々な催しが行われている。時に病に苦しむ自らを客観的に見つめ、ユーモアさえ感じられる精神の強さや文章の不思議な明るさは、今でも読者の胸を打つ
▼子規は35年に満たない生涯に、俳句、短歌、写生文など多くのジャンルで現代にまでつながる功績を残した。その周囲には多くの文学者が集い、最後まで生きることを楽しんだ〈人間・子規〉の様子もうかがえる
▼なかでも夏目漱石との親交はつとに知られる。くしくも子規と漱石は同じ1867年(慶応3年)生まれ。第一高等中学校時代に出会い、互いの才能を認め合いながら終生親交を結んだ
▼1900年ごろ子規が熊本の漱石へ病床から贈った書画「あづま菊」が今に残る。書画には一輪挿しに生けた東菊が描かれ、「あづま菊いけて置きけり火の国に住みける君の帰りくるかね」の句が添えられている。漱石はこの書画を子規からの書簡とともに一軸に仕立てて愛蔵した
▼漱石は随筆集「思い出す事など」収録の「子規の画」で、この画を「拙くて且つ真面目」と評し、「拙」の欠乏した子規の文章が「絵の具皿に浸ると同時に、忽ち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んでしまった」と、温かな視線で冷静に見つめている。さらに「出来得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償としたかった」と、亡き友人への哀惜の思いをつづっている
▼病床の子規は英国留学中の漱石とも手紙をしばしば交換。漱石にあてた最後の手紙(1901年11月)では「僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヤウナ次第ダ(中略)僕ハ迚も君ニ再会スル事ハ出来ヌト思フ」と記している。子規は漱石の英国留学中、35歳の誕生日を前に死去。留学から帰国し子規の墓に詣でた漱石は「始めて汝が墓門に入る爾時汝が水の泡は既に化して一本の棒杭たり」と、親友への追悼文を寄せている。

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