コラム「復・建|日刊紙 日刊建設タイムズ

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2014/07/07

世界遺産登録の富岡製糸場

▼上信越自動車道の富岡IC付近を通り過ぎるたび、「ここで降りれば見学できるのに」と思いつつ、ついぞ行きそびれていた富岡製糸場。その富岡製糸場と絹産業遺産群が先月、めでたく世界文化遺産に登録された。以来、現地は連日多くの見学者で賑わいを見せているという
▼恥ずかしながら筆者は、製糸場と言えばノンフィクション小説で映画にもなった「ああ野麦峠」の女工哀史を連想し、富岡製糸場に対してもその程度の認識しか持ち合わせていなかった。ところが富岡製糸場の労働環境は、諏訪や岡谷などの民間製糸場とは違って、当時にしては驚くほど良好なものだったという。まったく不勉強とは恐ろしい
▼富岡製糸場は1日8時間労働で、週休1日のほか夏冬に各10日間の休暇があり、賃金水準も高く、食費や寮費も製糸場の負担という、明治期の労働環境としては、女性工員にとって世界でもまれなほど恵まれていた。世界文化遺産登録の審査ではこうした点も大きく影響したとみられる。暗いイメージの付きまとう戦前の製糸場でなかったことは、なおさら世界遺産にふさわしい
▼明治5年(1872)の設立当初には約400人の女性工員が働いていたというから、その労働風景はさぞ壮観だったろう。なぜ当時から最先端の設備と労働環境が整っていたかといえば、同製糸場が国の威信をかけて巨額を投じた、いわば「巨大公共事業」だったからと言われている。日本で初めて大型機械が導入された官営(国)の製糸工場で、あとに続く各地の民営製糸工場のモデルにもなった
▼明治26年に民間に払い下げられてからは環境も悪化したが、それでも女工哀史のような過酷な環境ではなかったようだ。女性工員たちは帰郷後、各地で技術を伝えるなど指導的な役割を果たすことも少なくなかった。女工らが労働搾取の代表例だった時代に、富岡製糸場は女性進出に一役買い、一方で国家的なモデル事業としても先駆をなした。今回の世界文化遺産登録を機に、その歴史的価値を改めて噛みしめたい。

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